詩篇 78篇23−39節

私たちが住んでいる州は夏休みになりました。州によって夏休みがずれています。混雑しないようにというのも理由なのかもしれません。そのためか、自宅すぐ近くに停留所から乗るバスはいつもよりも空いています。地下鉄の駅もあるのですが、7月に入り3週間ほど工事のために運休中。夏休みはあちこちで運休するので、出かける際には代替手段・ルートを確認する必要があります。慣れるとおもしろいのですが…。
「みことばの光」は78篇を3回に分けて読みます。きょうは二つ目の段落。ここは、エジプトを出たイスラエルの民の旅の間中、神が天からマナを、うずらを降らせてくださったという出来事を回想します。これは出エジプト記16章に書かれています。
この時民は、神がきっと自分たちに食べ物を与えてくださると、信じておとなしくまっていたのではなかったのです。彼らのリーダー、モーセとアロンに不平を言いました。
「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト記16章3節)
神は不平を言う彼らに天からマナとうずらを降らせてくださったのですが、それを得た民は、神への感謝もなしに欲望を露(あらわ)にし、そのために神の怒りのために打たれ、いのちを落とした者たちがいたのです。
この箇所に「しかし」ということばがいくつか用いられていることに目が留まります。「しかし」という接続詞は前に述べられたこと、前に起こったことを否定する時に用いられます。
36節では「しかし彼らは…」とあります。神の怒りのゆえに裁かれる同胞を目の当たりにした彼らは、一時(いっとき)神のに悔い改めます。しかし、彼らの悔い改めは真実なものではなかったのです。
38節では「しかし、神はあわれみ深く…」とあります。ここでの「しかし」は、ご自分との契約に不誠実な彼ら、口先だけで「ごめんなさい」をいう彼らを、それでもあわれみ赦すという「しかし」です。
私が「しかし」と言うのはどのような時なのだろうかと考えるとともに、神の「しかし」によって自分があると気づくのです。