詩篇 69篇

2025年の初めの日はどのようにお過ごしでしたか。私は午後から鉄道でのショートトリップを楽しみました。全くの遅延なし。金曜日に長めの旅を控えているのですが、どうなることでしょう。今年は仕事をする部屋の壁に世界のクリスチャン鉄道ファンが作成されたカレンダーが貼られています。
呑み込まれようとしているダビデ、信仰者の危機。しかしそれはまた、信仰者がその本領を発揮する時でもあるのだと、この詩篇を読んで思いました。それはここで祈っているダビデがどんなに大きな危機にあっても、強大な敵に対しても、立派にふるまったということによってではないのです。
彼は自分が泥沼から、大水の底から救い出されるよう、奔流が押し流すことがないよう、穴の中に呑み込まれることがないようにと必死に神に祈っています。そうなのです。彼は自分の弱さに悩んでいるのです。弱さに悩むだけではありません。5節でダビデは、自分が愚かであり、数々の過ちを犯す者だとも告白しています。
彼の苦境は敵のあざけりや攻撃だけではありません。8節には、兄弟たちからものけ者にされていると嘆きます。辛いときに頼れるはずの肉親もよそよそしくしているのです。
しかしその時こそ、信仰者はその本領を発揮します。ありのままを神に願う祈ることができるという、それこそが信仰者の「実力」なのだと、ここを読んで教えていただきました。
6―7節に目が留まります。神を慕い求める者の行く末が、泥沼にあるダビデの信仰にかかっていると彼は祈ります。そしてダビデの苦境が彼の神との関係にかかわる者だったということも分かります。
最後にダビデは、神をほめたたえます。苦しんで痛みの中にいながらも…。
このダビデの祈りから私たちは主イエスのお姿がくっきりと刻まれるのを知ることができます。私たちの罪を贖うためにお受けになった主イエスの苦しみの跡を、本篇から辿るものです。