みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

だまされた神の人

列王記第一 13章11−34節

 火曜日に西瓜を購入。4キロほどありましたが、リュックサックに入れて持ち帰りました。蒸してはいませんが、屋根のすぐ下の私たちの住まいは、シャッターを閉めていても室温が上がります。4人で、聖書を読む前と読んだ後にいただきました。こんな日は西瓜が美味しいですね。

 ベテルの祭壇に向かって「祭壇よ、祭壇よ」と神のさばきを語る神の人。彼は罪を重ねるヤロブアムの萎えた手を癒やし、ヤロブアムの申し出を「主が命じられたから」といって断わり、神のことばどおりに帰路に就きます。神の働きを立派にやり遂げたのです。

 ところが、読む者がすっきりしないような出来事が神の人の身に起こるのです。彼はベテルに住む老預言者にだまされ、神の命令に背きます。そして事もあろうに、彼を騙した老預言者を神が用いて神の人の死が宣告され、獅子に殺されました。

 老預言者の行動について、推測はできてもその理由を理解することはできません。老預言者は息子から神の人が行った一切を聞いて、預言者として自分が長い間忘れていた志のようなものを呼び覚まされたのかもしれません。

 本来なら自分たちが、ヤロブアムを諌めなければならないのに、何かを恐れて彼は口を閉ざしてしまったのかもしれません。しかし、ユダからの神の人の行為がそれを変えるきっかけを与えた、のでしょうか。老預言者の心に、何としても神の人を家に招きたいとの思いが湧きました。彼をだましてまで…。

 「だました」ということばが気になります。神のことばを踏みにじりうそをでっち上げた老預言者こそさばかれるはずなのに、神はそんな彼を神のことばを届ける器として用いられたのです。

 さらに神の人は、老預言者が語る自分へのさばきのことばを、うろたえることなく、怒ることなく受け止めているように思えます。神のことばを語る神の人ゆえの厳しさを、受け入れたのです。