アモス書 5章16−27節
日曜日、礼拝をした会堂は室温が低く、私は宣教する側ですのでそれほど寒さを感じなかったのですが、体を動かすことなく聞いている方にとっては我慢の時間だったようです。会堂での礼拝は来年の春までお休み。29日からは近くにある教会の事務棟のホールで礼拝を行うことになります。
5章後半からは、預言者アモスの時代の北王国イスラエルにおける宗教生活がどのようなものかを見ることができます。
彼らは主の日を切に待ち望んでいました。それは、過去の歴史において神が奇跡的な介入を何度もされたことを伝え聞いていたからだと考えられます。出エジプトにおいて、約束の地カナン侵攻において、神がイスラエルを支え勝利に導かれたということが伝説のようにして語り継がれてきたからです。主の日が来れば…という期待を彼らは持っていました。しかしここでアモスは、「主の日は闇」だと断言します。
なぜでしょう。アモスが語る「主の日」とはイスラエルの側が主のさばきを受ける日だからです。神に選ばれたというプライドはあったとしても、それにふさわしく考え生きるという姿勢がなかったのです。
また彼らは、ささげものを神に献げていました。しかし神は、彼らのささげ物を喜ばれません。受け入れることはないのです。「かぎたくない」「受け入れない」「目を留めない」「聞きたくない」などという否定的な動詞が連なります。神がイスラエルの民に期待しておられるのは、「公義を水のように、義を、絶えずながれる谷川のように、流れさせ」ることでした。
選ばれたというプライドだけで、それにかなって歩もうという姿勢の欠如は、このような結末に至るという警告をここから得ることができます。それはじつは、幸いなことなのです。