ルカの福音書 6章17−26節
月曜日、日中の最高気温は1度でしたが、外に出た時の体感温度はもっと低いような気がしました。太陽が一日中出ることはなく公園の歩道も凍ったまま。かえって歩きやすかったです。昨日も目標歩数を越えることができました。そして、とびきり美味しいミカンを購入できました。
ここを箇所を読んで、福音書のどこかに同じような主イエスがあったはずだと気づかれた方も多いのではないかと思いました。そうです。マタイの福音書5章1−12節に置かれている教えと似ています。
マタイが最初に「……イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た」と書いていることから、マタイ5−7章は「山上の説教」と言われます。一方ルカは17節に「それからイエスは彼ら(弟子たち)とともに山を下り、平らなところにお立ちになった」と書いています。そこからルカが記すこのイエスの教えを「平地の説教」と呼ばれることもあります。
それぞれに収められている似た二つの教えの、どこが違うかを比べてみるのもとても良い時間を持つことができます。
主はここで、前半に「幸いです」、後半に「哀れです」を繰り返して用いておられます。幸いなのは貧しい人、今飢えている人、今泣いている人のこと。哀れなのは今富んでいる人、今満腹している人、今笑っている人のことです。そのまま読んで気づくと、逆ではないかと思います。
やせ我慢をせよと教えておられるのではありません。この福音書の前後関係から読むならば、山の上でイエスによって選ばれた弟子たちへのことばだということに気づきます。彼らはイエスについて行くことによって、今貧しさや空腹、また涙を流すようなことが待ちかまえています。しかし、彼らにやがて間違いなく約束されているのは「その日」の喜び。しかもそれは躍り上がるほどの喜びだと言われるのです。
何が幸いか、何が哀れか、イエスについて行くことでそれが全く変わってしまうという発見があります。イエスが言われるように幸いと哀れとを受け止めているだろうか、と問われます。