マルコの福音書 14章53−72節

火曜日朝、オンラインでのデボーションに入れていただきました。イギリス、ドイツ、そしてチェコに住む人々が、「みことばの光」を片手に、週に一度一緒に聖書を読み、分かち合い、そして祈り合っています。私たちは月一度の参加です。聖書を一人で読むのは基本ですが、一緒に読むと新しい気づきが与えられます。
イエスの裁判の場面です。この裁判は初めから不当なものだというのは、55節で明らかにされます。「イエスを死刑にするため」に開かれたからです。私たちの社会で、最初から死刑という判決に向かって裁判を行うということはないでしょう。しかし、イエスを捕まえた人々には、結論ができあがっていました。
その結論に向けて、裁判であるからには証言が大きな意味を持つのですが、イエスの裁判では証言が一致しません。そうであるなら無罪放免です。しかし、あくまでも死刑にしたいと強く願う人々は、一つの質問をします。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」と……。
「わたしが、それです」とのイエスのことばを聞いた大祭司は、これでイエスを殺せると心で安堵したのではないでしょうか。彼は証人などいらないと裁判の基本をゆがめます。
後半はペテロです。彼は、もうぼろぼろです。イエスのためならいのちも捨てますと言いながら、数時間後にはその関係をきっぱりと否定するのです。こんなにみじめな経験はないでしょう。何一つ自己弁護できないほど打ちのめされるのです。
ここには、人間としてのあり方をゆがめた人々が次々に登場します。その中で一人だけ、真理と真実を貫いたのは、イエス一人だけでした。
「私たちが真実でなくても、 キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」とのⅡテモテ2章13節のことばが心に湧いて来ます。