マルコの福音書 10章1−16節

滞在ヴィザを更新することになり、昨日役所に行きました。4年間の延長が認められました。いつも、ヴィザ更新では緊張するのですが、すべてがスムーズに進んだので、帰宅してどっと疲れが出ました。土曜日は、フランスのストラスブールでの礼拝に出席します。
キリスト教の結婚式で、新郎と新婦それぞれが神と列席する人々の前で誓約をしたあと、司式者(牧師)は二人を夫婦であると宣言します。その際に「神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません」と宣言するのですが、それはこの箇所でイエスが語られことばなのです。
パリサイ人は、イエスを罠に陥れようとして離縁状についての質問をしたのでしょうが、イエスの答えは彼らの予想とは違うものでした。ここを読んで思うのは、人は神のことばを自分(たち)の都合の良いように勝手に解釈し、利用するのだということです。
「聖書がこう言っている」ということは、神を信じる人々にとっては逆らえない、覆(くつがえ)すことのできないものになりえます。しかし、「聖書がこう言っている」と言いながらある場合には、自分の願望や思いを実現するために本来の意味ではないことを導き出してしまうのです。
きょうの箇所の終わりの部分には、子どもたちをイエスのところに連れて来た人々をイエスが叱るという出来事が記されています。ここでの弟子たちにも、パリサイ人たちがしたのと似たような姿勢があったのではないでしょうか。聖書をどう読むか……、大切なことです。