イザヤ書 56章
オンラインでの洗礼準備クラス。昨日は「聖書を読む」というテーマでした。「みことばの光」で勧めている「日々聖書を読むために」に沿って、昨日の箇所イザヤ書55章をいっしょに読みました。いろいろな発見のある素晴らしい時だったと思います。
56章はまず、1節に目が留まります。「わたしの救いが来るのは近い…わたしの義が現れるのも」とのことばから、主である神がすべてのものを正しくさばく日を思わせます。キリスト者は自分がどこを、いつを目指して歩んでいるのかを忘れないことをここから知らされます。
このことばを受けて、それではだれが、神の救いにあずかり、神の義にかなうのだろうかという問いかけへの答えが続きます。それは、自分たちが神の選びの民だと誇っている人々にとっては驚くようなものです。
2―3節には「異邦の民」「宦官(かんがん)」が出てきます。これらの人々は神の前に立つことができないとイスラエルでは考えられていました。ところがここで神は、神との契約を保ち神の戒めを守るこの人たちヘの素晴らしい約束を与えておられます。
それでは彼らは、神の戒めを落ち度なく守ったので神の民とされたのでしょうか。そのように読める箇所でもありますが、聖書全体が何を伝えるのかを考えるならば、異邦の民や宦官は、神に信頼することによって、つまり信仰によって神のものとされたのです。その新しい立場が、神の教えを喜びその教えに生きる歩みになったということです。
他方、9節以降には、神に牧者の務めをゆだねられた者たちの堕落した生活が描かれています。そのため、牧者に守ってもらえない人々は「獣」に貪(むさぼ)り食らわれてしまいます。ここでの牧者とは、当時のイスラエルの政治、宗教の指導者たちだと考えられます。
最後のことばを警告としたいと思います。「明日も今日と同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」神とのつながり抜きで、そんなことはないのです。