ルカの福音書 4章1−13節
私たちが住んでいる所は交通の便が良く、玄関から歩いて1−2分でバスの停留所、地下鉄の駅があります。地下鉄といってもこの辺りは地上を走っているのですが……。昨日もバスを利用して買い物に出かけたのですが、行きも帰りもほとんど待つことなく乗ることができました。
と、こんなことを書こうと考えて本日の箇所を読みましたら、複雑な気持ちになりました。今日の箇所には、イエスが四十日間悪魔の試みを受けられたと書かれています。これは「荒野の誘惑」として知られています。
1節に目が留まります。聖霊に満たされ、御霊によって導かれたのならば、快適で良い経験をするはずではないかと考えるのですが、イエスの場合はそうではなかったのです。
1−2節を切り離して考えてはならないのです。荒野での悪魔の誘惑も御霊に導かれてのことなのです。私の「複雑な気持ち」はこれに基づいています。玄関からバスの停留所に着いたらすぐにバスが来た、帰り道もお店から停留所に来てみたらバスが停まっていたのです。このような経験は御霊に導かれてのことと考えやすいのですが、聖書はそんなことを約束していません。
試みもまた神に導かれてのこと、です。そして、イエスが受けた過酷な三つの誘惑の出来事を読む中で思うのは、神はこの間もイエスとともにおられたという事実です。イエスが受けた三つの誘惑は、ほとんどの人には誘惑とは言えないものだと思うのです。なぜなら、私には石をパンにすることなどできないからです。
しかし、神の子イエスには悪魔のこれらの誘いかけはすべて、できること。だから誘惑なのです。「できる」というのは、誘惑の機会になるのだということもここから考えさせられます。
最後に一つのことばを思いました。
「私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」ヘブル人への手紙4章15節