コリント人への手紙第二 11章16−33節
ギタリストの方は日曜日にバプテスマを受けたばかり。その教会から洗礼のお祝いに「みことばの光」PDF版1年分が贈られたそうです。その編集を私がしていると話しましたら…。このような贈り物もすてきですね(何か、宣伝臭くなってきましたが)。
パウロはコリントの教会が、偽の使徒の影響から自由になってキリストに対する真心と純潔の思いを保つようにと熱く語っています。ここでは、そのために愚かなことかもしれないがと前置きして、自分が紛れもないキリストの使徒であることを誇るのです。
22節のことばからは、偽使徒たちが自分たちの出自を誇りとしているということを知ることができます。パウロは、自分もそうだといいます。
23節からは、自分は偽使徒たちにはるかにまさってキリストのしもべだと主張します。「狂気したように言いますが」ということばからは、キリストのしもべとしての熱情が伝わってきます。そして、なぜ自分がキリストのしもべなのかという理由について、キリストのために数限りない苦しみに遭っているからなのだと綴るのです。迫害、事件、事故、災害が彼の肉体や心を痛めつけました。
ここに綴られるパウロのことばを読むと、息が止まるほどです。数においても激しさにおいても、自分が経験したことはととても小さいと思ってしまいます。それとともに、比較してどうこうのということではないとも考えるのです。言えるのは、キリストのしもべとして受ける経験は、どれもが自分の弱さを知ることにつながるということです。弱さを知り、弱さを嘆くとき、キリストのみわざ、お姿を心に描くことができるように思えます。