ヨハネの福音書 7章14−24節
「祭りも中頃になったとき」と14節にあります。仮庵の祭りの初めの興奮が落ち着いた頃ということでしょうか。十字架の時はまだ来ていなかったにもかかわらず、イエスは宮で教え始められました。
人々はイエスの教えを聞いて驚きます。正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのだろうかといぶかるのです。このような反応はエルサレムに始まったことではなく、ガリラヤ地方でも見られました。郷里ナザレで、イエスは安息日に会堂に入りお語りになりました。聞いた人々は「この人は、ヨセフの子ではないか」と言ったのです。⇒ルカの福音書4章22節
メシヤ、救い主だとして認めてもらうのだとしたら、正規に学び、周囲から「やはり他の人とは違う」と言われるような、つまり、つまずきとならないようにすることもできたのに、なぜ父なる神は御子をそのようになさらなかったのでしょうか。「正規に学んだことがないのに…」ということばに答えて、イエスはこの教えは「神から出たもの」だとお答えになります。
どこで学んだか、どこに住んでいるのか、どのような社会的な立場にあるのかによって、相手の対応が違うのを経験したことがあるかもしれません。だれにも学ばず、エルサレムに生まれず住まず、ヨセフの子であるイエスは、「うわべ」では人々の注目を浴びにくい立場におられたと言えます。つまずく要素をいくつもお持ちだったのです。
この福音書の初めの部分に、「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(1章12、13節)
神によって生まれるのは、ナザレ人イエスをメシヤと信じる者。