コリント人への手紙第二 12章11-21節
1歳と2ヶ月の孫を見て驚いたり感心したりしています。
たとえば…。
鼻歌ですが、「チューリップ」と「主われを愛す」を口ずさみます。スケート選手のようにくるくるとからだを回します。明瞭なことばを用いることはまだできませんが、コミュニケーションがとれるようになりました。本人も、「わかった、わかってもらった」ということがうれしいようです。大人たちも、わかってくれたことで笑顔になります。人と人とが通じ合うのが、これほどうれしいことなのだということを、1歳2ヶ月の幼子とのおつき合いを通して、改めて覚えることができます。
自分が紛れもなくキリストの使徒であることを、パウロはコリントの教会の人々に語っています。
それほど、偽りを教える教師たちが教会で、パウロについてのうそを言いふらしていたということでしょう。きょうの箇所にも、「(パウロは)悪賢くて、あなたがたからだまし取った」とのことばがあります。むしろ逆だ、親が子に対してするように、あなたがたに重荷を負わせないで来たのだと、パウロは反論しているのです。
これほどしているのにわかってもらえない、語っているのに伝わらないというもどかしさを、パウロは感じていたのではないかと想像します。あまりにも熱心に訴えるので、今度は「パウロは自己弁護をしている」と思われます。そこで、彼は「私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです」と言います。このことばが心に響きました。
人が神の御前で語るならば、もっと正直に生きられて通じ合う喜びを味わえるようにと、都知事の苦し紛れの弁明、特定機密保護法を審議しているお偉方の姿を見ていて思います。
そして、教会における交わりにこそ、「神の御前で、キリストにあって」が日常の姿としてありますように…。